文学教育の前にすることがあるのでは?

梅田氏が「水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。 - My Life Between Silicon Valley and Japan」で取り上げて以来、「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」がブログ界で話題になっていますので、私も早速読んでみました。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

本書のテーマ、「日本語が亡びるとき」ではなくて「日本近代文学が亡びるとき」ではないかというのが、私の基本的な読後感です。ただし、日本語、文化について無意識に抱いていた概念を意識化してくれたという点で、面白い本であることは確かです。本書に対して毀誉褒貶が激しいのは当然かな。
まず、文学論としてと読後感は、「水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』を読む。 - 【海難記】 Wrecked on the Sea」で語られていることと同じです。

というわけで、水村美苗の本は、梅田望夫氏が考えているのとはまったく違った意味でも、多くの人に読まれるべきである。そして議論が起こされるべきである。そして願わくば、このようなナショナリズムと悲観と無知と傲慢さによって彩られた本は否定され、「近代文学」の達成をふまえつつ、現在の日本語で優れた小説を書いている作家たちの「孤独」こそが、広く知られるべきなのだ。
まあ、私は

日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。

という学校教育によって、逆に純文学と言われているものが嫌いになってしまったという偏見があるからかもしれませんが。中学の有る時期までは結構好きで、強制などされなくても結構読んだりしていたんですけどね。画一的な解釈を強制され、それをテストされたことで、逆に文学というものがつまらないものになってしまいました。純文学を読むなら、直接学術書を読むなり、ノンフィクション作品読む方がよっぽど面白くなりましたね。真理の追究なら、解釈の問題として逃げる余地のある文学よりも、直接哲学でぶつかり合った方がいいでしょ。筆者の文学観はポストモダンに対するものと同じ違和感を感じます。
ここで、私も含めて、小説、詩、俳句などを総称して当たり前のように文という言葉を使っていますが、文ではないのでしょうか。小説とかは芸(art)ではなくて学(study)の成果物なんでしょうか?いわゆる純文学の衰退は、学(study)という言葉を使うことによって、芸(art)としての創造力を失ってしまったと私なんかには思えるのですが。漱石東京帝国大学をやめ、朝日新聞社に転職したのは、文学者(scholar)であることをやめ、芸術家(artist)の一員である小説家(novelist)になることを志したように私には思えます。
多分、一番強い違和感を感じるのは、やはり

日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。

という教育論ですね。この主張見て、「英語の圧倒的一人勝ちで、日本語圏には三流以下しか残らなくなるが、人々の生が輝ければそれでいい - 分裂勘違い君劇場」における次のような感想を抱いた人は少なくなかったはずです。


重要なのは、文化でも社会でも国家でもなく、個々の人間の実存だ。
日本文化を守るために、
現にいま、こうして生きている個別具体的な人間のリアルな人生を削って奉仕させる

など、本末転倒もいいところだ。
文化のために個々のリアルな人間が存在するのではなく、
個々のリアルな人間の生を豊かにするために文化が存在するのだ。
個々の人間のリアルな生が輝くのなら、日本文化など亡んでもかまわない。

では、言葉とはなんなんでしょうか。私は言葉に限らず、メディアというものを

  • 意思疎通の道具
  • 表現の道具

という2種類に分けて考えています。本書の中の概念に対応させてみれば、

  • 意思疎通の言葉=学問の言葉
  • 表現の言葉=文学の言葉

となるかと思います。
まず生きる上で直接的に必要になるのは意思疎通の言葉です。そして、人間はコミュニティを形成する動物ですから、その紐帯を深くするために表現の言葉が発達してきたと思います。では、両者は何が違うのでしょうか。意思疎通の言葉はその字義どおり、いかに正確に自分の伝えたいことを表すかという目的のためにあります。それを突き詰めていけば、数学であり、プログラミング言語になります。それに対して、表現の言葉の特徴は、基本的に作者が勝手に表現し、読者が勝手に解釈することだと思います。本来そのようなものでありながら理解し合えるものを感じることで紐帯を抱く、それが表現の言葉ではないでしょうか。そう考えれば、作者として読者を増やして欲しいという主張は分からないことではないのですが、教育として義務化するというのは疑問です。なんと無粋なことでしょう。古典とは時間の流れの中でふるい落とされずに生き残ってきた作品に与えられるものであって、義務化しなければ生き残れないとしたら、逆に古典となるべき資格について逆に疑問を感じてしまいます。フランスにおける文化保護政策が、逆に文化の活力を奪ったと思っていますので。
そして、表現の言葉は意思疎通の言葉が生きていてこそ生きていけるものだと思います。それが小飼弾氏を次のような行動に走らせたのではないでしょうか。私の勝手な推測ですけど。


ただし、「どうやったら来世紀も日本語を遺せるのか」という点に関しては、著者と意見を異とする。Jcodeを経てEncodeを出した経験が、それを裏打ちしている。
日本語を護る最良の方法は、何か。
日本語以外の言語、すなわち英語以外の言語も共に護る、という方法である。
なぜ私がJcodeでは満足できなかったかといえば、「日本語だけ護る」のでは日本語を護り切れなかったからだ。だから、英語が第一言語であった故 Nick Ing-Simmons から Encode を「引き取った」。プログラマーとしては数段劣る私がそれに踏み切ったのは、彼より強い危機感を持っていたからに他ならない。そして Encode を引き取るということは、日本語のみならず、英語以外の言語を全て引き取ることだった。
コミュニケーションの手段としてのICTが存在感は増大する一方です。そこで英語しか使えない状態になってしまえば、著者の懸念通り表現の言葉も自然と英語に集約されてしまうでしょう。そして、多言語を使えるようにすると言うことは、表現の言葉として母国語を使うのは普通であるということを、英語を母国語とする人に納得させる有力な手段となるでしょう。
これからの国語教育を考えていく上で、本書第七章のアメリカのクラス分けの話は興味深いですね。

私が通っていたアメリカの公立のハイスクールでは、数学や理科の授業は難易度を自分で選べたが、<国語>の授業だけは、過去の成績をもとに、学校側が生徒を上中下の三種類のクラスに振り分けた。格別に優秀な生徒を集めた上級のクラスではギリシャ神話やホメロスまで遡って古典の素養を身につけさせられた。ふつうの生徒を集めた中級のクラスではアメリカ文学と共にシェークスピアディケンズを読まされた。どちらのクラスでも、可能な限り、英語で書かれた文学の伝統を継承させるのに主眼が置かれていたのである。そのような贅沢が許されたのは、比較的裕福な人々が住む郊外にある恵まれた学校だったからであろう。
ただ、それとは別に、ふつうの授業にはついてゆけない一握りの生徒たちを集めた下級のクラスがあった。そこで行われた授業は、英語で書かれた文学の伝統の継承などとは無縁の授業であった。まさにアフリカの田舎の子供を集めたのと同様、読み書きができるのに主眼が置かれていたのである。

なぜ、このようなクラス編成をしたのか、その意図を深く掘り下げれば「日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。」などという主張にはつながらなかったと思うのですが。このクラス編成の意図は、文章から読み取れる限りでは次のようなものでしょうね。

上級 表現技法、読解技法の習得を前提として、表現力、読解力の向上。ここがこなせれば文化の創造に寄与できる可能性が開ける。
中級 読み書き能力の習得を前提として、表現技法、読解技法の習得。ここをクリアすれば学問を理解することができる。
下級 基礎的な読み書き能力の習得。ここをクリアしないと基本的な生活を送るにも不自由する。

少なくとも、義務教育においてはまず生きていくことが出来る能力を身につけさせることが基本です。言葉というものは文化を背景にして成り立っていますから、技法を習得するためにもその成果である小説にふれることも必要でしょう。でも義務教育課程における国語教育の目的は、あくまでも言葉を使って生きていく能力を身につけさせることであり、その中で文学作品をつかうのは手段です。目的ではありません。すくなくとも中級レベルまでは。
そして私が国語教育を思い返して痛感しているのは、この中級部分に当たる技法教育の貧弱さです。技法は作品に触れたり、会話したりすることで、自ら習得することもできますが、教育を通して教えることが出来るものです。もちろん技法習得すれば良い仕事を出来るわけではありませんが、少なくとも悪い仕事をする可能性は減らせます。苦労して車輪の再発見みたいなことをする手間を省いてより建設的な活動に当てることができると思うのですが。
それでもやはり「水村美苗「日本語が亡びるとき」は、すべての日本人がいま読むべき本だと思う。 - My Life Between Silicon Valley and Japan」や、「404 Blog Not Found:今世紀最重要の一冊 - 書評 - 日本語が亡びるとき」で、読まれるべき本であるとされているのは、次のような経験のないひとにも問題意識を抱いて欲しいという願いからだと思います。


アメリカに住むことで、より日本のことがわかるようになる、というのは逆説でもなんでもない。今まで当たり前であったことが当たり前でなくなることによって初めて、日本文化に通底していた暗黙の前提が浮き彫りになってくる。日本という国の不思議さと、アメリカという国の深さが同時に見えるようになってくる。肝心なのは、それが見えてしまうことで生じる、ある種の精神的な危機をどうやって乗り越えていくかという、現実的で具体的な問題のほうである。安易な日本批判に走るのも一つの逃げ道である。安易な米国批判に耽るのも同じことである。しかし、ここで両者のもつ価値観に対して等しく誠実であろうとすると、これはまったく容易ではない。どちら側も自分の味方につけることができない宙ぶらりんの状態になってしまうからだ。
この問題は、私も直面しましたし、未だに悩んでいる一人です。著者の主張には同意できませんが、考える切っ掛けとして読まれるべき本であるというのは確かです。異なる意見にまで目を向けることは、自分の見方の幅を広げることができますからね。