ハイデガーと仏教哲学

今更ですが、「ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)」を読んで思ったこと。ハイデガーの思想って仏教哲学で論じられていることと非常に類似しているのでは。

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

存在者と存在の関係は、五蘊と空の関係とその議論の仕方が同じとしか私なんかには思えません。
ハイデガーの遺言めいた次の言葉は、高僧の言葉のようですし。

全集出版にあたり、「全集編集上の留意」という覚書をのこしている(全集第1巻冒頭)。死の数日前のせりふ。いわば遺言。たった一言。
「道。著作ではない」(Wege-nicht Werke)

そして放下。

どうしようもない。どうか<しよう>なんてことがすでに人為。石の立場。イカガワシイ。だから<待つ>。待ちながら、ひたすらゲシュテルという時代構造(同時に構造ニヒリズム)に、目をひらいていたら、それでいい。そうあっさりいう。

このあたり、以前読んだ「般若心経は間違い? (宝島社新書)」で語られる初期仏教の教えを思い出してしまいました。

般若心経は間違い? (宝島社新書)

般若心経は間違い? (宝島社新書)

出発点が違えども、同じ問題意識から突き詰めて考えると同じ道を歩むことになるのかな。