社会学のアイデンティティ問題

ちょっと積ん読状態だった「社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)」をようやく読み通しました。

社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

この本、著者が現職に就くときに抱いていた、以下のような問題意識をまとめたものになっています。

それがこうして大学は違うがまた社会学部に今度は教員として戻ってきた、と言うより今度こそほんまもんの(社会学者でいっぱいの)社会学部に(しかも倫理学担当で!)やってきたわけであるから、色々いきさつもあるのだが、それは省略。しかし実のところ未だに自分には「社会学」なる学問の意義がよく分かっていない。
世の社会科学の多くは、世の中の制度と(言い方は悪いが)共犯関係にある。一番はっきりしているのは法学と会計学である。法律にかかわる仕事をする(法律家になる)ためには法学の勉強をしなければならず、会計の仕事をする(会計実務家になる)ためには会計学を学ばねばならない。法学や会計学にとって法律や会計という存在はただ単に客観的に観察する対象ではなく、よりよいものへと改良すべく操作する対象でもある。法学や会計学は法律や会計という仕組みを作り上げ、動かしていく現実の力の一部なのだ。
この両者に比べればずっと弱いが、政治学や経済学、経営学、あるいは教育学、社会福祉学もまたそれぞれに、現実の政治や経済、企業や学校、ソーシャルワークを動かしていく現実の力である。しかしそのような大多数の社会科学に比べたとき、社会学にはそのような力が余りない。個人としてそのような力量を持つ社会学者は少なくないが、制度としての社会学は世間からそのような尊敬を受けていない。(余談ながら、そういう有力社会学者の多くは「政治社会学者」として政治学者なみの、あるいは「産業社会学者」として経営学者なみの待遇を受けているにすぎないように思われる。)
なぜそのように社会学は無力なのか? これは難しい問題だ。無力であることイコール悪いこととも、弱点ともただちには言えないこともまた、話を面倒にする。なぜなら、いま言ったような意味で無力であるということは、つまりは世の中の既成の権力とか利害関係とか、要するにしがらみから自由に、批判的に振る舞うことが容易である、ということであり、それはたしかに学問としての強みでありうる。だがそのような自由はもちろん、無責任であることと裏腹の関係にもあるのではないか。
大学時代、社会学の講義を受けたり、実地に社会調査実習をしたりしたこともあったので、それほど社会学が無力だとは思っていないんですけど。このような問題意識、どこかで見たことが有るなと思ったら、「統計学と経済学のあいだ (1977年) (東経選書)」で統計学アイデンティティに関する議論とそっくりですね。統計学それ自体はデータの分析手法に関する学問であり、適用領域の課題に合わせた手法が開発されています。それと同じく社会学は人間集団の分析手法を学問としてのコアに据えて、実証的な手法の開発を徹底的に進めることで社会科学全体の基盤になることにアイデンティティを求めてはどうでしょうか。何を見るかはそれぞれの学問領域に任せて、どのように見るかに焦点を当てる、それだけでもいまの社会科学の実証研究の現状からは十分すぎる貢献だと思います。社会学としての歴史的経緯から、そのような割り切りはできないかもしれませんが。そのような学問としてのコアをはっきりしていれば、別に「政治社会学者」とか「産業社会学者」と見られてもまったく気にする必要ないと私なんかは思うんですけど。
(追記)
パーソンズは触れられていてもルーマンはスルーなのはどうしてと思っていたら、「稲葉振一郎『理論社会学入門講義(仮)』6月刊行を目指して作業中につき - インタラクティヴ読書ノート別館の別館」のコメント欄見たら意図的にスルーしたんですね。