ソーシャル・ウェブ

巨大システムの内側の世界」などを基盤として動き、「群衆の知恵」の実現されたものは何がを再確認したくて、「ソーシャル・ウェブ入門 Google, mixi, ブログ・・・新しいWeb世界の歩き方」を改めて読んでみました。

ソーシャル・ウェブ入門 Google, mixi, ブログ・・・新しいWeb世界の歩き方

ソーシャル・ウェブ入門 Google, mixi, ブログ・・・新しいWeb世界の歩き方

以前読んだときはWeb2.0本の一つとして読んだだけでした。しかし集合知とかを自分の中で整理しながら改めて読んでみると、ウェブの世界が「電子化」の呪縛から抜け出しつつあるのではないかという思いを抱くようになりました。以前上司から「電子化という言葉は使うな」とよくいわれていたのですが、「電子化」という言葉を使うことで、既存の物の単なる置き換えにどうしても発想を限定しがちになります。慣れ親しんだメディアが有る場合、どうしてもその改良として考えてしまいます。メディアの歴史を振り返った場合:

  • 新聞は人々の間で交わされていた噂を紙にしただけでしょうか?
  • ラジオは新聞を読み上げただけでしょうか?
  • テレビはラジオに動画を付けただけでしょうか?

もちろん、既存のメディアの延長線上としての使い方も有るでしょう。それに対してコンピュータが本来持っていたポテンシャルを活かしたのが、萌芽にあたるのがこの本で紹介されたソーシャル・ウェブなのでしょう。鳥の単なる模倣から解き放たれたときにようやく飛行機が実現したようなものでしょうか。批判する側が持ち上げるメディアも、かつては批判される物であったことに思いをはせてみましょう。ネットによる変化の流れが本質的な物であれば、比較制度分析でいわれる「制度の束」を再構築することになります。その過程では化学反応の遷移状態のように、かなりの混乱と軋轢は避けられ無いものになるでしょうが、新聞が、ラジオが、テレビが受け入れられたように、当たり前の時代になりつつあるように思えます。
その変化を「進化」ととらえるか、「退化」と捉えるかは人それぞれです。新しいメディアが普及したときの批判の一つのパターンとして、人間の能力を退化させるというものがあります。新たな道具を手に入れれば、当然しなくてもいいことが発生します。そして、その道具を使うことが当たり前になってくれば、以前必須の技能は不要の物として顧みられなくなります。いわば進化と退化は表裏一体ではないでしょうか?
そのような現象は生物界では当たり前のことで、進化論(wikipedia:進化論)では「進化」という言葉の意味について見直されています。たとえば、ビタミンはなぜ摂取が必要になったのでしょうか。それは、日常的に摂取できるので自己で合成するより効率的なため、自分で合成する能力が失われたと言われています。現在のウェブの変化も、人間の環境(情報インフラ)への適応と考えれば、失われる物が有ったとしても、それは致し方ない物のように思います。失われるデメリットを避けようとすれば、結局メリットも得られないのではないでしょうか。そのような変化を幸福と考えるか、不幸と考えるか、難しいところです。
さらに環境が激変することがあれば、以前は無用の長物と思われていたのが再評価されるかもしれませんが、それこまで見通すことはできません。現在、環境問題の一つとして、動植物の種が次々と絶滅しているのが問題とされていますが、多様性の維持のために伝統文化的な保存も重要かも。皆に強制するのは無理が有ると思いますが。
この本取り上げられているのはいわば変化のスナップショットみたいなもので、次がどうなるかは「Web2.0」という言葉が定着してから早速議論になっています。「ウェブ3.0の姿をつかめ:何がキモになるのか?:CNET Japan」とか、「来るべきWeb3.0の世界 | WIRED VISION」とか。
やはり、


 「ウェブ1.0は集中化した彼ら、ウェブ2.0は分散化したわれわれ。そしてウェブ3.0は非集中化したわたし」だと彼は書いている。「(ウェブ3.0 は)世界に参加したくないときのわたしに関するものであり、自分の環境に誰を導き入れるかをより強く制御したいというわたしの側面に関係している。ウェブ 3.0では、わたしの注意の対象が広がって、自分が注意を払うのは誰か、あるいは何か、そして自分を誰に見せるかということにまで及ぶ。それは、わたしにとってのより効率的なコミュニケーションなのだ。」(O'Brien氏)
なんでしょうか。とすると、非集中化はインフラの徹底した集中化によって低コストでパーソナライズされ、ソーシャル化によって個人の行動の記録が集積されることによりリコメンデーションが実現するのかな。
さて、そこで失われるのはなにでしょう。