我々はどうして今のような存在なのか

最近周りでいろいろ有って、ここの更新もまた滞ってしまいました。やはりまとまった文章を書くのは精神的な体力を消耗しますので、余裕が無いときにはちょっと難しく。
自由意志にかんして「誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか」、「自由は進化する」を読んで、改めて人間の心理とかが今のようになっているのは何故か、もやもやしてきて今更ながらですがドーキンスの「利己的な遺伝子 <増補新装版>」を読む。数ある進化に関する本の中でこれを読んだのは、まあ「自由は進化する」を読んだ後だったからということがあるのですが。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

専門柄、遺伝子至上主義的な主張にはあまり良い感情を持っていなかったので、「自由は進化する」というタイトルだけでスルーしていたところもありました。進化というものを、遺伝子を基本単位として、その集まりの遺伝子セットの協力関係をゲーム理論で捉えるのがいまのところ一番妥当な説明であるというのは納得。なぜ利他的な行動が起きるかに関しても、遺伝子という単位でみれば個体を犠牲にすることで、それによって救われる個体に存在するであろう同じ遺伝子の利得によって、遺伝子そのものトータルな利得はプラスになるからだという説明は面白い。
あと、有性生殖で繁殖し、個体の老化と死が存在する生物が結果として繁栄しているのは、環境の変化、病原体を含む寄生者、自分を捉える捕食者からの淘汰圧に対して、一見不経済に見えるそのようなメカニズムを持った生物が結果として生き残ってきたのだろうか。老化に関してはいろいろな説が唱えられているけれど、淘汰圧に対抗するために、あえて個体が確実に死ぬような遺伝子を含む遺伝子セットが広まってきたのだろうか。寄生によって利益を得ようとする遺伝子セットにとっては、宿主の遺伝子セットが永続的な方がより有利な適応を図ることができるのだから。つけ込む隙のない盲点のない完全なシステムは実際には実現不可能と言っていい以上、不老不死を追い求めるというのは結果として種として絶滅の危険を大きくするかもしれない。個人としてはまあ釈然としないところのある思いですが。仏教における四苦(生老病死)に通ずる考え方ですよね。