世間では明るいニュースとして取り上げられましたが

今年は日本出身の方ノーベル物理学賞、化学賞を相次いで受賞して、受賞者の方にはまずはおめでとうございますと申し上げておきます。とはいえ、私は日本の研究環境の現状を考えると素直に喜べませんでした。その点については下村氏もふれていましたが、冬樹蛉氏の「[間歇日記]世界Aの始末書:たまたま日本で生まれた人々がノーベル物理学賞を受賞」で述べられている


先進国である(はずの)日本の国民としては、単に遺伝的に日本人である人の受賞よりも、日本の大学や研究機関でノーベル賞に繋がる業績の主な部分を築いた人の受賞をより喜び、より誇るべきなのではあるまいか? いや、おれはべつに利根川氏や南部氏の個人としての偉大な業績にケチをつけるつもりはないのだ。ただ、喜びかたとして、“日本人だからどうこう”という時代では、もはやないのではないかと思うのである。まあ、おれとて、“世界で活躍する日本人”と言われる人々を見るにつけ、なにしろ同じ言語が通じるのだから親近感を覚えるのは事実だけれども、彼ら・彼女らの多くが“なぜ日本にいながら世界的に活躍できなかったのか?”という想いが反作用のように心中に生じ、フクザツな気持ちになってしまうのだ。
そこで、日本人の意識が次の段階に進むステップとしての目標を想定しておきたい。それは、日本の大学や研究機関でノーベル賞に繋がる業績の主な部分を築いた“外国人”の受賞を国を挙げて喜ぶということである。冷静に考えると、世界から“あの人だからこそできた”と見られるよりも、“あの国でだからこそできた”と見られるほうが、日本人一般にとってはずっと誇らしいはずのことではないかと思うのだがどうか。「あの国で研究がしたい」と世界中の研究者から思われるようになることのほうが、たまたま日本に生まれ育った人がノーベル賞を取ることよりも、国家としてずっと重要だと思いませんか?
という意見にまったく同感だからです。そのような国になれなければ、日本という国の再生も難しいと思うのですが。