疑似科学批判とポストモダン批判

一時期話題になった「水からの伝言」ですが、最近あまり話題にならなくなっていたので、ようやくブームも下火になったかと思っていたんですがね。黒影氏の「幻影随想: 関東地区女性校長会が激しくやばい件」を見て、まだブームは去ったといえない状況のようです。事前情報が与えられた状況で起こりがちな錯視で説明できるなと思ってスルーしてしまうという態度が蔓延を許してしまうのかな。
そこで以下のような話をされていたようです。

先生が用意した妊婦さんの羊水をホメオパシー溶液の倍率である5万倍に薄めた水の結晶を撮影しました。
羊水の結晶です(写真1)。この羊水に韓国語で「堕胎」という言葉を見せて撮影すると(写真2)、何か文字のようなものが現れました。
羊水に子どもの写真を見せたら、とってもいい結晶になりました(写真3)。

これって、普通に心理学で説明できる話なんですけどね。「この羊水に韓国語で「堕胎」という言葉を見せて撮影する」という情報が見る人に与えられたことによって、「何か文字のようなもの」が見えるということは、雲の形や壁のシミでよく説明されているような、錯覚、錯視で説明できますよね。でも、水伝では、「この羊水に韓国語で「堕胎」という言葉を見せる」ということによって、その情報を受け取った羊水の結晶が形を変えて、「何か文字のようなものが現れる」というように説明されているようです。情報によって自分からは世界が違って見えるというのと、情報によって世界そのものが変わるのが見えるというのは、文にしてみるとちょっとした違いですが、意味することはまったく違います。
科学だと、どんな仮説も立てることはできますが、既存の枠組みで現象がうまく説明できている限り、新たな仮説を採択しません。自分の倫理的な価値観を正当化するために科学に権威を求めているようですが、科学の営みは基本的には疑うことなんですけどね(苦笑)。
私自身は水伝関連スルーしてしまっていたので、見当違いな批判をしているかもしれません(汗)。ちゃんとした批判については、黒影氏も推薦している「水はなんにも知らないよ (ディスカヴァー携書)」をどうぞ。

なぜ教育界で広まってしまったかというと、科学についても正しい、間違っていると教えているから、もっともらしい説明を聞くとあっさり信じてしまうのからかもしれません。教職課程では心理学も学んだはずなんですけどね。
あと、これはポストモダン批判でも出てくることですが、科学に過度に権威を抱いているのでしょうか。水伝批判をみていて、その構図は「「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用」におけるポストモダン批判と同じ構図に思えました。
「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

社会科学、人文科学とは何かについて再確認するのに、「「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用」を読んでたんですよね。著者はポストモダン風の論文を適当にでっち上げて論文誌に登録したら、採択されてしまったという事実をベースに批判を展開されています。もちろん、社会科学一般を科学的でないと攻撃したのではなくて、その一部に見られる科学の濫用を攻撃したのですが。
問題点をいくつか指摘していますが、そこで「社会科学における科学主義」として批判されている内容と、疑似科学批判は似ているなと。ここで、「社会科学における科学主義」は次のように定義されています。

仮に「科学主義」とは、単純ではあるが「客観的」で「科学的」と思われる方法を用いれば、非常に複雑な問題さえも解決できるという幻想を差すものとしよう。

そのような考え方は、見かけが科学的なだけで、科学的な態度ではないと批判しています。

非常に広い意味での科学的な態度、つまり、理論の明晰さと論理的な整合性や理論と経験事実の照合を尊重する態度は、自然科学のみならず、社会科学においても重要だとわれわれは信じている。だが、何らかの社会科学の研究が科学的だという意見には慎重に対処すべきである。これは、経済学、社会学、心理学などで、現在、世を風靡している傾向についても(あるいわ、それらにこそ)あてはまる。社会科学の対象となる現象はきわめて複雑であり、これらの理論を支えている経験的な証拠はしばしばきわめて薄弱である。

社会科学を専門とされている方が、「これらの理論を支えている経験的な証拠はしばしばきわめて薄弱である。」なんていう文を見ると、むっとスルからもしれません。著者が「自然科学の威信」のなかで批判している、自然科学者自身の傲慢さそのものだと。でも、林知己夫氏が、「データの科学 (シリーズ データの科学)」の総まとめとして述べているように、妥当な意見だと思います。

因果関係追求はマクロ的なものを分離し、次第に単純なものへと一方向的に分化させていく。人間の生体理解のためにミクロの世界に入り込み、さらに物理・化学にまで分解される。そこまでいって、仮に因果関係がわかったとしても(因果関係らしきものがわかったとしても)、複雑な諸要因の絡み合い、ダイナミックスで人間は生きているので、もとの人間生体の有機的現象に戻して役立てることは不可能であるように思える。しかしこれが科学の進んでいる大道である。如何ともし難いのであるが、マクロはマクロなりに考えて有用な情報を取り出す−必ずしも因果関係にとらわれない−ことも考えてよいのではないか。

安易に科学的な見かけを過信してしまうと、著者が

経験的な知見を無視する態度が、教条主義的な科学主義と結びつけば、最悪の傑作が生み出される可能性がある。

と述べたようになってしまうかと。
私自身は信仰や倫理の存在を認める立場です。でも、信じることが基本原則の信仰が、疑うことが基本原則の科学にその正当性を求めるというのは、私にはちょっと皮肉に感じます。