無謬性、行為の自由

今回の金融危機によって市場をベースとした資本主義に対しても疑念を呈されていますね。そしてその理論的バックグラウンドである新古典派経済学も防戦一方といった感じです。新古典派経済学者はフリードマンを代表としてリバタリアニズム(wikipedia:リバタリアニズム)を思想的背景に持っている人が多いので、必然リバタリアニズムに対する風当たりも強くなっているようです。
リバタリアリズムにおける自由とは、私なりの理解では意志の自由であって行為の自由ではないはずです。私自身はリバタリアンとはいえませんので誤解しているかもしれませんが、自発的な意志に基づいて行動すると言うことで、何をやっても良いと思うことでは無いはずです。今回の問題を引き起こしたのはリバタリアンではなく、リバタリアニズムを曲解した偽リバタリアンではないでしょうか。前にも書いたことありますが、悪人正機説(wikipedia:悪人正機)を曲解して「本願ぼこり」という問題が起きたのと同じ構造かな。


悪人正機の意味を誤解して「悪人が救われるというなら、積極的に悪事を為そう」という行動に出る者が現れた。これを「本願ぼこり」と言う。親鸞はこの事態を憂慮して「くすりあればとて毒をこのむべからず」と戒めている。
ただし今度はこの訓戒が逆に行き過ぎて、例えば悪行をなした者は念仏道場への立ち入りを禁止するなどの問題が起きた事を、唯円は『歎異抄』において批判している。
アダム・スミスの「見えざる神の手」と同じく、「道徳感情論」なき「国富論」みたいな曲解をすると問題の発生が避けられないのかな。
リバタリアニズムへの風当たりがつよくなるのと平行して、パターナリズム(wikipedia:パターナリズム)が脚光をあびるようになりましたが、こちらはこちらで陥穽が待ち受けています。いまだ社会科学が盛んな学問分野であるということは、逆に言うといまだわれわれは人間、社会、経済とかについて不十分な知識しか持ち合わせないと言うことですよね。人はあくまでも人でしか無くて、ドン兄優れた人であっても神のような万能性は持ち合わせてません。そのような限られた知識と能力を持つにすぎない人間が不確実性に立ち向かえば当然間違えますパターナリズムの最大の問題は、そのような人の集団である組織が無謬であると思うこと、または無謬であることを期待することだと思います。つまり、間違いを認められないことです。政策が状況にそぐわなくなったのに、自己の無謬性に傷つくことを恐れて行動を変えられず、事態を悪化させてしまうことが起こりえます。日本の現状を見れば・・・分かりますよね(苦笑)。
どのような理想的な制度を目指しても、社会選択理論での戦略的行動によって自壊する。組織が永続しないのはそのためなのかな。