「由らしむべし、知らしむべからず」からの脱却

情報システムの費用対効果分析とかやっていた時期があったので、「人でなしの経済理論-トレードオフの経済学」は結構楽しく読めました。

人でなしの経済理論-トレードオフの経済学

人でなしの経済理論-トレードオフの経済学

もう少し穏当なタイトルをつけた方が良かったのではと私なんかは思うのですが、著者はあえて常識に反するような分析結果を提示することで、トレードオフとは何かということを鮮やかに示しているので、妥当だといえないこともありません。臓器移植問題や喫煙問題など、政治的にかなりセンシティブなテーマを選んでいますし。
トレードオフってすっきりと解決策を決めてくれるものではないのと期待をもって本書を手に取った方、期待はずれに感じているのではないでしょうか。さて、本書を読んだ方で、こういう結論も導ける、ああゆう結論も導けると、なんかもやもやしてはっきりしないと。そう、それが現実にトレードオフを考える上で、この手法が抱える宿命でもあります。
現実の場で適用しようとすると、「9.解決策などない」の「あるのはトレードオフだけ」に記述してある問題に直面します:

かつてある経済学者が、こんな万能の政策提言を述べるのを聞いたことがある−「解決策などない、あるのはトレードオフだけだ」。これについてのぼくの解釈は、どんな社会問題についてもどんなな政策的解決策が提示されたとしても、それが万人に満足いくものであることは絶対にない、ということだ。そこには必ずトレードオフが−費用と便益−があって、そのために「解決策」という概念がよくてもあいまいになってしまう。費用と便益を正確に計測できたとしても、社会的厚生をどう定義するか、政策目標をどこに設定するかという問題は残る。

費用はどこまで算入するか、便益をどのように算出するかから始まって、トレードオフの制約の中でどの点を最善の解決策であると決めるやり方など、それによって結論は変わってきます。そのため利害が対立している関係者間で分析を実施する前段階ですでにバトルが発生するとか、現状にそぐわないとしてせっかく導入した制度が実質的に空文化したり、初めに結論が決まっていて、その結論になるように定義を設定するとか。そのような現実もありますが、著者も同章のなかの「敢えて夢を」という節の中で、

もしぼくにとって完璧な政策世界を選ぶとすれば、政策立案者たちが明示的にトレードオフの考え方を認識してほしいと思う。

という期待を私も抱いています。今年の漢字で「偽」が選ばれたように、もやは「由らしむべし、知らしむべからず」ではすでに納得できないところまで至っていると、日本の現状を考えているからです。
まあ、トレードオフを考えていると、著者のように

あまりに長年にわたりトレードオフのことばかり考えてきたので、いろんな問題でどっちかの立場に肩入れすることはほとんどなくなってしまった。

という弊害(?)もありますが(苦笑)。