司法制度改革と規制緩和

司法制度改革というと、裁判員制度の導入と、そして法科大学院中心の放送養成制度への変革に注目が集まっています。しかし司法制度改革は規制緩和と相互に補完的な制度改革だったはずではないでしょうか。「超訴訟社会 (コンパクトシリーズ)」は、日本の制度改革のいわばモデルとなった米国の現状をもとに、日本の制度改革によってどのような問題が起こりうるかを分析した本です。

超訴訟社会 (コンパクトシリーズ)

超訴訟社会 (コンパクトシリーズ)

「第一部 法化社会の真実」では、米国における司法制度への、一般市民を含めた意識をどちらかというとポジティブな面を説明しています。「「濫訴社会」が上陸する」では、日本でもPL法導入時に問題にされたような、濫訴の実態を批判的に取り上げています。そして、「おわりに」で、弊害を低減するにはどのような取り組みを行うべきか、著者の意見が述べられています。
これを読んでふと思ったのは、本来行政指導に変わるのものは、司法の場を核とした民間の自律なのではないでしょうか。規制緩和と同じペースか、むしろ司法制度改革を先行させていれば、今年の漢字として「偽」が取り上げられるような、規制緩和に対する不信感が蔓延することは無かったのではということです。そのため、規制緩和に対して反動が起きてしまいました。
実際、司法制度改革審議会の「司法制度改革審議会意見書ー21世紀の日本を支える司法制度ー」には以下のような表現があります。

第1 21世紀の我が国社会の姿
国民は、重要な国家機能を有効に遂行するにふさわしい簡素・効率的・透明な政府を実現する中で、自律的かつ社会的責任を負った主体として互いに協力しながら自由かつ公正な社会を築き、それを基盤として国際社会の発展に貢献する。我が国が取り組んできた政治改革、行政改革地方分権推進、規制緩和等の経済構造改革等の諸改革は、何を企図したものであろうか。それらは、過度の事前規制・調整型社会から事後監視・救済型社会への転換を図り、地方分権を推進する中で、肥大化した行政システムを改め、政治部門(国会、内閣)の統治能力の質(戦略性、総合性、機動性)の向上を目指そうとするものであろう。行政情報の公開と国民への説明責任(アカウンタビリティ)の徹底、政策評価機能の向上などを図り、透明な行政を実現しようとする試みも、既に現実化しつつある。
このような諸改革は、国民の統治客体意識から統治主体意識への転換を基底的前提とするとともに、そうした転換を促そうとするものである。統治者(お上)としての政府観から脱して、国民自らが統治に重い責任を負い、そうした国民に応える政府への転換である。こうした社会構造の転換と同時に、複雑高度化、多様化、国際化等がより一層進展するなど、内外にわたる社会情勢も刻一刻と変容を遂げつつある。このような社会にあっては、国民の自由かつ創造的な活動が期待され、個人や企業等は、より主体的・積極的にその社会経済的生活関係を形成することになるであろう。
21世紀にあっては、社会のあらゆる分野において、国境の内と外との結び付きが強まっていくことになろう。驚異的な情報通信技術の革新等に伴って加速度的にグローバル化が進展し、主権国家の「垣根」が低くなる中で、我が国が的確かつ機敏な統治能力を発揮しつつ、「国際社会において、名誉ある地位」(憲法前文)を占めるのに必要な行動の在り方が不断に問われることになる。我が国を見つめる国際社会の眼が一層厳しくなっていくであろう中で、我が国がこの課題に応えていくことができるかどうかは、我々がどのような統治能力を備えた政府を持てるかだけでなく、我々の住む社会がどれだけ独創性と活力に充ち、国際社会に向かってどのような価値体系を発信できるかにかかっている。国際社会は、決して所与の秩序ではない。既に触れた一連の諸改革は、ひとり国内的課題に関わるだけでなく、多様な価値観を持つ人々が有意的に共生することのできる自由かつ公正な国際社会の形成に向けて我々がいかに積極的に寄与するかという希求にも関わっている。
このようにして21世紀において我々が築き上げようとするもの、それは、個人の尊重を基礎に独創性と活力に充ち、国際社会の発展に寄与する、開かれた社会である。
規制緩和と司法制度改革がスムーズに行っていれば、消費者庁を設立しようという議論は不要だったはずなのです。
まあ、法化社会への道はまだまだ遠そうですね。医療の偏在とか費用の高額化は問題とされていますが、司法の偏在と高額な訴訟費用の問題は本書でも指摘されています。いわば無保険、全額自己負担の世界ですから、自己負担の出来る富裕層と、公的な支援もある貧困層の間の中間層が一番厳しい状況にはなりそうですが。