シーシュポスの岩

Guns, Germs, and Steel: The Fates of Human Societies(邦訳:銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎銃・病原菌・鉄〈下巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎)」でピュリッツァー賞を受賞したジャレド・ダイアモンドによる「文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)(原著:Collapse: How Societies Choose to Fail or Survive)」を読んで、いろいろ考えさせられました。

文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)

文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)

文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)

文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)

なぜ、危機を招いてしまったのか、単に危機を招いた人がおろかだったからでしょうか。私にはそんなに単純な話には思えなくて、そんなときに文明崩壊を描いた本書のことを思い出して読んでみました。
著者のジャレド・ダイアモンドは、大学で生理学を修めてから、進化生物学、生物地理学、鳥類学、人類生態学へと研究のフィールドを発展させていった方で、人間本性論だけでも、環境決定論だけでもない、研究対象に対するマルチな見方が私なんかには共感できます。
本書は、文明の崩壊と存続の要因として、次の5つの視点から分析してます。

  • 人々が環境に与えた損傷
  • 気候変動
  • 近隣の敵対集団からの脅威
  • 近隣の有効集団からの支援の減少
  • 発生した問題への対応の失敗

自らが招いた環境破壊や、それに対する対策の失敗のように、その社会の問題に帰着できる視点から、気候変動のように人為では如何ともし難い問題も含んでいます。いま、気候変動というと経済活動による温暖化物質排出が問題とされていますが、本書でも触れているように人々の活動に関わらず気候は元々変動するものです。例えば太陽活動周期と地球気候変動については、NASAによる次の分析が報告されています。
Striking a Balance with Climate Change : News
このように崩壊の要因が複雑なことに加えて、調査できることの限界により断片的な証拠から推測するしかないので、本書の分析に対しても異論があるようです。現在の研究手段では仕方ない限界ですけどね。
本書の全体は、「第1部 現代のモンタナ」、「第2部 過去の社会」、「第3部 現代の社会」、「第4部 将来に向けて」の4部構成になっています。
「第1部 現代のモンタナ」で本書を始めたのは、アメリカの読者に対してなじみ深い事例から始めることで、これから続く事例に対して準備を促すためでしょう。
「第2部 過去の社会」は、過去の崩壊した社会について分析し、最後の「第9章 存続への二本の道筋」で崩壊を免れた事例を紹介してます。事例としては、イースター島という孤立した社会から、ピトケアン諸島、アナサジ族、アイスランドグリーンランドへと複雑な要因を抱えた社会へと順序をたどっています。グリーンランドの崩壊は特に印象的で、著者もわざわざ2章を咲いて分析してます。結局ルーツであるノルウェー生活様式が、グリーンランドの環境には適合せずに環境破壊へとつながってしまったこと。小氷期という人知では予測しがたい環境変動が、さらに厳しさに追い打ちをかけてしまったこと。よりグリーンランドの環境に適応した生活文化をもったイヌイットと友好的な関係を気づけず、彼らから生き抜くための知恵を受け入れるどころか、敵対してしまったこと。これだけ悪条件がそろえば滅亡は必然だったことでしょう。
「第3部 現代の社会」は、ルワンダイスパニョーラ島のハイチ・ドミニカ、中国、オーストラリアを取り上げています。ルワンダの悲劇については、「生かされて。」で読んだことがある方もいるかもしれません。

生かされて。

生かされて。

昔地理で人口密度マップを見たときに、ルワンダはアフリカ諸国の中でも高い人口密度を持つことで印象的でした。現在でもwikipedia:国の人口密度順リストを見ても、国順では16位ですね。それが、農業生産力が高いとはいえない地域に住んでいるのですから、結局人口増に環境がついて行けなかったという、マルサスの「人口論」の予測が現実化した例と見られています。
オーストラリアの問題については、この本で初めて知りました。農業、牧畜業に向いた土地だと思っていたのですが、気候変動が不安定なこと、地力が見かけほど大きくないことから、実際に事業として農牧業が持続可能は地域が限定されているとは意外でした。
「第4部 将来に向けて」では環境問題の専門家として、持続可能な社会について提言を行っています。環境問題の本によく見られるような、企業の道義的的責任を指摘するような単純なアプローチはとっていません。企業はあくまでも営利を目的としているという現実に基づいています。対照的なのが、環境対策に熱心に取り組む石油会社と、敢えて破産することを選択することで、処理費用を政府、ひいては市民に押しつける鉱山企業です。石油企業は対策費も利益に比べて安価ですみ、また長期に操業を続けるためには地域との良好な関係が必要であるということが、環境対策に対するインセンティブになっていると分析しています。それに対して、鉱山企業は一般的に利益率が低く、汚染処理費用を負担しきれないため、なんとか環境対策費を負担しないですむようなインセンティブがあると分析しています。そして、もし鉱山企業が汚染処理費用を負担できるようにするためには、最終的には消費者がそのコストを負担する覚悟が必要であるとも。

さて、私がこの本を読みながら考えていたことは、環境問題というよりは経済成長についてです。そして、人々の生き方と環境の関わりの問題です。
グリーンランドに入植したヴァイキング社会が、文化的なルーツにあるノルウェー生活様式固執した結果として全滅した悲劇には、社会の規範について再考させられるものです。人がとるべき規範の基礎付けを人間の本性に求める研究が進められていますが、どのような規範が現実的に選択可能かという点では環境要因の制約があるのではないでしょうか。グリーンランドの崩壊を読んで思ったこと。それは環境要因の制約によって、もし社会の存続を求めるのなら、本来望ましいと思われる規範をあきらめる必要があるではないでしょうか。あまり楽しい考えではありませんが。
そして経済成長のことです。経済成長が人々が幸せになる最善の道である、それに対して基本的には異論はありません。でも、それには限界があるのではないかということを、バブルと崩壊の歴史をいろいろ読んで最近思っています。より高い成長を求める余り、成長の前提条件を自らぶちこわしてしまう。LTCMの崩壊の記録を読んだときから、そのような考えを抱いています。比較的長い成長期に生まれた多数の幸運な人々がいる反面、崩壊期にたまたま生きた人々が不運を引き受けるのはやむを得ないのか。ギリシャ神話にはシーシュポスの岩(wikipedia:シーシュポス)という比較的よく知られた神話があります。経済成長を追い求めるって、

  • シーシュポス(=市場経済)の
  • 岩(=人々)を
  • 山頂に持ち上げること(=経済成長)

と同じなのか、経済危機について知るにつれ分からなくなってきました。岩であるわれわれは持ち上げられている長い時間に経済成長を楽しみ、山頂に着いた瞬一気に崩壊する悲劇を味わう。そして山頂まで岩を持ち上げることを再開しますが、不運な社会は転げ落ちたときに岩が砕け散ってしまう。持続可能な社会と、成長と崩壊を繰り返す社会、どちらがよいのでしょうか。歴史的に見て、成長と崩壊は必然であるという冷めた見方も出来ますが・・・。