裁判官がモデレーターになるのでは?

裁判員制度が始まっていろいろ批判が出ていますが、少数の裁判員が裁判官に代わって裁くと捉えている方がほとんどのようですね。でも陪審員制度と違い、協議の場に裁判官が同席する裁判員制度って、裁判官が積極的にモデレーターとして審理を進めることが前提の制度ではないの?裁判員制度の概要見ても、制定した方々はそのように考えているとしか思えませんし。


裁判員は審理に参加して、裁判官とともに、証拠調べを行い、有罪か無罪かの判断と、有罪の場合の量刑の判断を行うが、法律の解釈についての判断や訴訟手続についての判断など、法律に関する専門知識が必要な事項については裁判官が担当する(法6条)。裁判員は、証人や被告人に質問することができる。有罪判決をするために必要な要件が満たされていると判断するには、合議体の過半数の賛成が必要で、裁判員と裁判官のそれぞれ1名は賛成しなければならない[5]。以上の条件が満たされない場合は、評決が成立しない[6]。
うろ覚えですみませんが、裁判官の方って世論に流されないように情報の摂取に関しては気をつけているらしいですね。ポピュリズムに流されないという面では必要なのかもしれません。そして、ある意味社会の中では一般的ではない事案ばかりに直面していますから、一般の市民との感覚のずれが生ずる傾向があるとか。結局裁判員制度で量刑判断までするようにしたのは、審理の中で裁判官と裁判員が意見を戦わすことで、裁判官と一般市民との感覚のずれをすりあわせる意図があったのかも。まあ、行政における審議会の司法版といううがった見方もありますが(苦笑)。
そう考えると、裁判員が6人というのも十分な数なのかも。動物実験も最近愛護団体の圧力厳しくて、少頭数の実験で検定行いますし。書いているうちに、ノンパラメトリック法(wikipedia:ノンパラメトリック手法)とか思い出してしまいました。事実認定だけなら裁判員が6人でよくても、量刑判断までするならもう少し人数多い方が安定するとは思いますが。まあ実際3人の裁判官が加わって全体で9名で審理するのでぎりぎりの数かな。まあ、実質的には量刑判断は裁判官が積極的にリードして決めていくことになるしかないでしょうね。
あと、裁判員は無作為抽出するのは当然で、異なるバックグラウンドを持つ人で構成されるのが理想的でしょうね。このあたりは集合知(wikipedia:集団的知性)と集団思考(wikipedia:集団思考)の絡みで議論されていましたね。資質に基づいてセレクトすると、結局同質な人の集まりになって集団思考に走る危険性は高いかも。
まあ、地裁での運用方法が固まるまでは、当面高裁が実質的な審理の場になりそうな予感はしますが(苦笑)。