日本人は本当に訴訟嫌いか?

司法制度改革で日本人の法意識とのズレが批判されたりしていますが、日本人の法意識の定本といえば「日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)」でしょうか。

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

それにしても日本人の方に対する考え方は、大宝律令が制定された時代から変わっていないですね。ちょっとウィキペディア大宝律令(wikipedia:大宝律令)を調べてみると、その成立について次のような記述が。

成立
大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成した。律令選定に携わったのは、刑部親王藤原不比等粟田真人・下毛野古麻呂らである。
大宝律令を全国一律に施行するため、同年(大宝元年8月8日)、朝廷は明法博士を西海道以外の6道に派遣して、新令を講義させた。翌702年(大宝2年2月1日)、文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し、10月14日には大宝律令を諸国に頒布した。
大宝律令の施行は、660年代の百済復興戦争での敗戦以降、積み重ねられてきた古代国家建設事業が一つの到達点に至ったことを表す古代史上の画期的な事件であった。大宝律令において初めて日本の国号が定められたとする説も唱えられている。
明治時代に法典を整備した理由として本書では次のように挙げています:

これらの法典が西洋的なものにするような現実的な或いは思想的な地盤が普遍的にあったからではなくて、不平等条約を撤廃するという政治的な目的のために、これらの法典を日本の飾りにするという一面があったことは否定できない。

法典成立の理由も似ているような。
また、社会状況が変わったときの対応も、法律の改正ではなくなるべく解釈ですまそうとする傾向も。

我が国では、「慣習法」或いは「条理」を根拠として法的判断基準を示す判決はきわめて稀であり、また、そのような根拠だけで法的判断基準を示す学説もきわめて稀である。裁判所はあらゆる努力をはらって、すべての法的判断基準(実質的には裁判の理由づけ)を、法律の言葉の意味の中に本来ふくまれていたものとして、「解釈」することによって説明するものであり、法律学者もこれをそのまま承認している。そうして、「解釈」というのは単なる見かけの説明でしかないこと、実際にはかなり多くの場合に当該の判断基準ないし裁判の理由づけは、裁判官ないし法律家が法律のことばの意味にもとづいててではなくて「条理」によって考案したものであること、を肯定しない。したっがって、我が国では、一旦法律が制定されたあとは、法律の改正はきわめてまれにしかおこなわれない。

大宝律令も、荘園に代表されるようになし崩し的に改正(?)されて行ったわけですし。まあ、そのほころびが限界にきて律令制は最終的に崩壊したわけですが。
ただ、民事訴訟の法意識については、本書では社会的に訴訟を避ける傾向を指摘していますが、それとは違った指摘もあります。実際、鎌倉幕府には訴訟を取り扱う問注所が設置されていて、現在で言うところの民事訴訟を取り扱っていて、かなりの賑わいだったとか。また、江戸時代の公事宿について書かれた面白いエントリーを見つけました。
福岡県弁護士会 弁護士会の読書:公事宿の研究
公事宿とは江戸時代以下のような役割を果たしていました:


江戸時代の公事宿は、公事訴訟人の依頼に応じて、訴状その他の訴訟に必要な書類を代書し、目安裏判のもらい受け、裏判消し等の訴訟手続を代行するのみならず、奉行所の命を受けて訴状の送達を行い、宿預けとなった訴訟当事者および訴訟関係人の身柄を預かるなど、公務の一端を負担していた。公事宿の制度は、江戸時代の司法制度の一翼をなしていたのである。
公事宿には、訴訟に必要な諸書類の雛形が備え付けられてあり、公事宿の下代(げだい)などは、それによって書類を勘造していた。
なぜこのような公事宿が成立されたのかというと、訴えの多さに幕府が音を上げたという話もあります。それであえて使いにくくしていたとか。

奉行所評定所の開廷日には、訴訟公事は大変繁忙しており、想像を上まわる。腰かけるところがなく、外にもたくさんの人がつめかけた。早朝から300人もの人が殺到している。このように描かれているのです。
まことに、実のところ、日本人ほど、昔から裁判(訴訟沙汰)が好きな民衆はいないのです。例の憲法17条の「和をもって貴しとなす」というのも、それほど裁判に訴える人が当時いたので、ほどほどにしなさいと聖徳太子が説教したというのが学説です。

江戸時代の裁判所の事物管轄は複雑だったので、どこに訴えたらよいのか、簡単には分からない。そこで、公事師が必要となった。
幕府当局は、人民が訴訟手続に通暁して「公事馴」するのは健訴の風を助長するものとして、法律知識の普及を欲しなかった。だから、一般庶民は、法律を知っていても、奉行所に出頭したとき、法律のことはまったく知らないという顔をしているように装うようにしていた。
実際、相対済令を出して、極力当事者間の和解ですまそうとしていたとか。

相対済令(あいたいすましれい)は、日本の江戸時代に出された金公事(金銀貸借関係の訴訟)を幕府は取り上げず、当事者同士で解決(「相対」)することを命じた示談促進法令である。1661年(寛文元年)に初めて出されて以来、数度にわたって発令された。
この法令は、民事訴訟増加による刑事訴訟停滞への対処[1]と旗本層の救済をねらったものであった。しかし、8代将軍徳川吉宗が1719年に出した相対済令は、金公事を永年にわたって取り上げない事を宣した。ただし、利息を伴わない金公事や宗教目的による祠堂銭(名目金)、相対済令を悪用した借金の踏み倒し行為は例外とされた。その結果、金融界を混乱に陥れたため、1729年に廃止された。その後も度々同様の法令が出されている。
民事訴訟において極力和解に持ち込もうとする伝統は、すでに江戸時代には有ったわけですね(苦笑)。このような記述を読むと、日本人がもともと訴訟嫌いというよりも、使いにくい制度になっていたと解釈した方が妥当だと思えます。