生きるための経済「哲学」

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)」、本書の主題となる哲学的な問題を取り上げるには素養が欠けていすぎて、エントリーとして纏めるの躊躇していたんですが、あえて私なりのとらえ方を纏めてみます。

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

きっかけは、小飼弾さんの「404 Blog Not Found:経済学と経済のキャズム - 書評 - 生きるための経済学」を見たからですけど。ちゃんとした書評はecon-economeさんの「安冨歩「生きるための経済学 <選択の自由>からの脱却」を読む。 - 日々一考(ver2.0)」をどうぞ。
私は本書はリバータリアン的経済「哲学」に対する批判の書であると捉えましたが、その主張ならば第1章は全体の論調を毀損しているなと思います。近代経済学古典物理学的手法によって経済を理解する学問であると良く理解されており、物理学におけるのと同じように現象を理想化して理論を構築しています。経済学批判で良く目にするのは、「合理的経済人」なんか実在しないというものですが、これは古典力学における「質点」という仮定や、熱力学における「理想気体」という仮定と同じ理想化でしょう。古典力学も熱力学・統計力学も、工学においていまだに強力な技術をもたらしてくれていますが、「質点」なんて現実には存在しないから古典力学なんて間違っているというひとはいないですよね。まあ、相対論とか量子力学にはいまだに批判を繰り広げるひとがいたりして、ト学会にネタを提供してくれていますが。「経済人」という理想化を行っても、経済活動における取引が説明できるのなら、特に批判されるべき問題だとは思いません。「経済人」に対して特に反発が強いのは、理論構築のために理想化した仮定にすぎないのに、「経済人」が現実に存在するとか、「経済人」にならなければいけないかのような主張または理解をする人もいるからかな。
近代経済学にも批判される隙があるのは確かで、理論を構築するときに量の変化は質の変化につながって別の理論体系になるということが、忘れがちになっているらしいことかな。物理学では、個別の物体の現象を理解するために成立した古典力学とは別に、熱という物体の集まった現象を理解するための熱力学が成立しています。それは統計力学によって結びつけられた形になっていますが、だからといって熱力学不要論を唱える人はいません。分子個々の動きが追えない以上、個々の動きを追わなくてよい熱力学はいまだに有効です。マクロ経済学の本を読んでみると、マクロ経済学ミクロ経済学によって裏打ちできるからと、マクロ経済学無用論を唱える人もいるらしいですが、そのような無用論は批判されても仕方ないですね。
物理学にも経済学にも素人である私ですが、もし物理学のメタファーを使って本書に取り上げられているような「市場理論」を批判するとすれば、次のような感じかな。

  • 古典力学・熱力学のメタファー:現在ミクロ経済学では市場という集団現象の理論というよりは、経済主体間の取引の理論である。市場という人間の集団の現象を理解するには手法として限界がある。ミクロにこだわることにより、逆に集団としての現象が見えなくなるのではないか。
  • エントロピーのメタファー:取引の非可逆性を仮定した場合、たとえ経済人の集まりであったとしても、その効率には限界があるのではないか。効率的に見えたとしても、それは測定対象がいわば開放系なだけであり、社会全体という閉鎖系では効率に限界があるのではないか。

メタファーって、理解したと誤解しがちなので、中途半端にしか理解していない人間が議論してもまったくの見当外れかな。市場の効率性に関する理解を深めるのは、risk、uncertainlyという概念かな。現在の経済学では偶然誤差として理論的には無視し得ると捉えられているような感じで本質的な問題でないと捉えられているようですが、本当にそうなのか疑問を持っています。最近ナイトの不確実性に関しての議論をみるので、その辺の問題意識を持った人はいるようですが。
本書で本質的な議論になるのは第2章以降ですが、それに関して具体的なコメントをするには私の素養が不足しすぎ。ただ、論調が全体論に傾倒している感じなのが気になります。還元論に対する限界を指摘されつつも未だに主流であるのは、その限界が人間の能力の限界に根ざしたものであり、限られた能力しかない人間が自然を理解しようとして必死に編み出した方法論であるからです。逆に全体論は「神の視点」、または「悟り」を要求するために、現実の問題を扱うには限界があります。どう生きるべきかを決めるのは哲学であり宗教であるので、そのような見方を否定はしませんし、きわめて重要であると思います。それ故、本エントリーのタイトルをあえて「哲学」と付けたました。経済学批判・反論に関しては、理学的視点、工学的視点、哲学的視点の議論が錯綜していて、そのような中でこんなエントリー書いたことにはとても不安を感じています。