経済の量と質

生きるための経済「哲学」」というエントリー、やっぱりトンデモ風味に見えるので再考。
物理学の歴史を見たときに、エネルギーの量に注目して理論を構築していったのが古典力学です。蒸気機関が発明され熱機関に関する研究を進めていった場合、エネルギーの量だけでは現象を説明しきれなくて、熱というマクロな現象を説明するために成立したのが熱力学です。そして、エネルギーの量の理論をベースにして、統計概念により質の理論を構築していったのが統計力学で、量と質が結びつけられたといえます。
熱力学が確立された結果として永久機関の可能性が否定されたわけですが、合理的期待仮説とか効率的市場仮説なんかを見ると、永久機関の研究の歴史が想起されてしまって、私なんかにはとても違和感があります。経済学において経済の質に関する理論はどこまで確立されたのでしょうか。価格とは経済の量に関する状態量だと思いますが、それとは別に経済の質に関する状態量は何でしょうか。そのような疑問を抱き始めたのは、倉都康行氏の「リスク再考―カオス、フラクタルを視座として (金融職人技シリーズ)」が契機でした。

リスク再考―カオス、フラクタルを視座として (金融職人技シリーズ)

リスク再考―カオス、フラクタルを視座として (金融職人技シリーズ)

私としても何かしっくりしない状態のまま、今に至っていますが。経済物理学の研究が進めばはっきりするかな。まあ、それがはっきりしたとしても、予測の限界とか、最適化の限界が突きつけられるだけのような気がするので、その辺期待している多くの人は失望するだけかも。人間、予測したい、最適化したいという願望は強いですからね。だから、確率や統計に対しても役に立たないと批判されることが多いですし。
なんかミクロ経済学批判ぽいですが、ミクロ経済学はそれとして期待しているんですよ。古典力学が工学の発展を促したように、経済を変える道具をもたらしてくれるのはミクロ経済学でしょうから。「市場を創る―バザールからネット取引まで (叢書“制度を考える") (叢書“制度を考える”)」なんかもミクロ経済学はどれだけ使えるようになったかという視点で読んでいましたし。ただし、還元論的アプローチを取る限り、自分の理論は何の現象を説明できるかを常に意識する必要があるわけで、それを忘れてはいけないのではないでしょうか。