私にとって科学とは

前のエントリーでは哲学嫌いと捉えられるような内容書いていますが、別に嫌いなわけではありません。科学とは何かについて勝手に語りましたが、実際には科学とは何かについていろいろな立場があって、科学哲学という分野でいまも議論が続いています。前のエントリーにおける私の立場はどうかというと、還元主義で実証主義になるかと思います。科学哲学を見ると全体論とか、構成主義とか別なとらえ方もありますので、あくまでも私の個人的なとらえ方に過ぎませんが、科学哲学についてこれ以上話を詰めていけるほど理解しているわけではないことはまず白状しておきます。
ではなぜ還元主義が好きかというと、小学校の頃から記憶するとか計算するとかが苦手で苦労したからです(苦笑)。さすがに何とかしなければいけなくて、文章は文意に要約して覚えるとか、計算問題はあきらめて応用問題にすべてを賭けるとか。振り返ってみれば、それをなんとか克服するために身につけた自分なりのテクニックが還元主義的方法論と相性がよかったのではと勝手に思っています。複雑なものを複雑なままでは覚えきれませんので、要素に分解するという現象を単純化して考える還元主義は自分にとっては都合の良い立場であるといえます。階層構造の下層構造が理解できたとしても、上層構造の振る舞いは説明つかないという全体論的批判に対しては、単純化するための仮定を置いたりして必要なら仮説を立てて補えばいいのではと考えています。たとえば複雑系に関するとらえ方でも似たような立場を取る人がいるようで、「複雑系まで還元主義で捉えている」という批判を見かけます。
この還元主義を突き詰めて考えれば、ソクラテスの「無知の知」につながっていきます。物事を分解的に考えると言うことは、常に理解されていない要素(仮説)があることを意味まします。そして、その要素がさらに分解できそうかは、それがある程度理解されるまでは分かりません。つまり、何が分かっていないかは永久に理解できないかもしれないことを意味しています。人間の理解できる範囲なんてたかだか有限ですよね。厳密に考えると捉えられることの多い還元主義も、こう考えてみれば分からないことがあっても仕方ないよねという私みたいないい加減な人向きの主張ですよね(笑)。
そして実証主義的立場です。それは大学時代の指導教授に「教科書にはウソも書いてある」といきなり言われたことが影響しています。ようは定番の教科書に「事実」して扱われている事柄であっても、まだ実験において確認されていない仮説であることもあるので、わかりきっていると思われている分野でも研究成果を上げることができるぞということだったのです。ただ、実証主義であるからと言って実証されていない仮説の存在は否定しません。むしろ対立仮説があっても当然だと思っています。還元主義から考えると実証されていない要素は常に存在しますので、実証されていないことを理由に仮説を否定すれば理論そのものが成り立たなくなります。そしてこの立場を取る限り理論の正誤は問えません。いえるのはどれだけよく現象を説明できるか、それだけに過ぎません。なので、科学理論において「その正しさは完全に証明されていると言って良い」と書かれると「????」となってしまいます。どちらかといえば反証主義に近いのかもしれませんが、実際に実証するには測定技術の限界が常につきまとっていますので、反証主義を標榜するにはちょっと抵抗があります。
でもこのような立場での主張って、白黒付けない分規範的な考え方を取る人から見ると迫力無いですね。AAASみたいな活動しないと科学にお金つかないのも当然か。