経済の哲学と理学

経済の「哲学」、「理学」、「工学」」というエントリーのうち「経済の「哲学」と「理学」」の続きといえるエントリーです。
前のエントリーで、

近代経済学は経済を理学的に捉えるという現象理解的な立場が強いようにみえますが、経済学は経済という人間の価値観に関係する理論である以上、理論を構築するに当たっての仮定の置き方に規範的な立場が入ってきます。

と考えた場合、その議論は「科学」と「哲学」がまだ分かれて考えられていなかった頃の「自然哲学」の状態に近くなってしまうのはある面仕方のないことなのかもしれません。現在科学的方法論で主流になっている還元論的方法論では、人間にでも取り扱えるように理想的な仮定を置いて現象を単純化した上で、仮説−検証というサイクルで理論を実証していきます。理論を構築するときにどこまで理想化するかは、検証で利用することのできる測定手段に依存します。社会現象については測定手段が自然現象に比べて測定手段に限界が有りますので、ある程度大胆な仮定を置いても仕方ないと思うのですが。その大胆が仮定の背景にある哲学に批判的な人には、理論全体に関して否定的になってしまうんでしょうけど。その辺、「経済人」に関する批判を見るとなんかもどかしい思いを抱いてしまいます。
もちろん科学にも哲学的要素は残っています。科学における方法論を成り立たせるためには哲学が必要ですので、それについて考察を重ねる科学哲学という分野があります。現在「科学」と言われているのは、規範を持ち込むのは方法論的な部分にとどめて、観察する対象には規範を持ち込まないということかな。自然をどう見るかという規範的であった部分も仮説として取り扱うようになって自然哲学から科学が分かれたといえるでしょう。「99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)」における残り0.1%の部分が科学的方法論に関する規範かな。それ故、理論の構築において規範的部分の大きい、社会「科学」とか人文「科学」とかは、本来科学といえるのかという疑問も呈されるんでしょうけど。あくまでも理学的な立場で議論する人は

  • 現実の社会ではいろんな価値観をもった人間が共存していますから最低限共通の価値観(=哲学)があるはずだとして、仮定の由来となった「哲学」に関する議論はとりあえず置いておく、
  • 理論が対象としている経済は、仮定が成り立つと考えても説明できる社会が対象とする

とか考えて、対象とする経済現象を理論がうまく説明できるかだけを評価しようとしているのかな。どうしても哲学的な議論になって難しい問題ですね。
そのような哲学的な問題とは別に、科学方法論的な問題もあるようです。科学においては、演繹的に理論を構築する方法と、帰納的に理論を構築していく方法があります。人によって得手不得手好き嫌いが有るようで、たとえば自然科学では演繹的な方法が好きな人は理論を組み合わせて理論体系を構築する「理論屋」になり、帰納的な方法が好きな人は現象から法則を見いだして理論体系を構築する「実験屋」になる傾向があるようです。そして、お互いに成果を罵倒フィードバックし合いながら協力して「学」を築いていきます。自然科学では対象の複雑さが大きくなるに従って「理論屋」よりも「実験屋」が優勢になる傾向が有るようです。ここで演繹的に理論を構築する場合は、現象を明確に説明するために数学をいわば記述言語として用います。ただ、理論屋の中には手段である数学における思考法に影響されすぎて、本来は現象の理解のための理論であるはずが、還元論の限界を超えて演繹的に理論を構築してしまうことも有ります。そのような場合普通は、実験屋からのフィードバックで歯止めがかかるんですけどね。
経済学は物理学をモデルに構築されているとはよく言われます。ただ、生物学よりさらに複雑な経済を扱っているにもかかわらず、物理学よりもさらに理論屋が優勢な状況にあるようで、私なんかからはどうしも不安感がぬぐえません。たとえば、ある理論によってミクロな現象がうまく説明できたからと言って、そこから演繹してマクロな現象がうまく説明できるとは限りません。ミクロ経済学からマクロ経済学への批判を見ると、現象のスケール考えろよと思えてしまうものがあります。そのもっとも明快に理解されている例が「熱」という現象の物理学でしょうか。当初古典力学のミクロな理論体系では扱いきれなくて、マクロなスケールでの仮定、仮説から熱力学が成立したというのは、なかなか面白く感じます。熱力学の歴史については「熱学思想の史的展開―熱とエントロピー」が良くまとまっているということなので、読んでみようかと思います。

熱学思想の史的展開―熱とエントロピー

熱学思想の史的展開―熱とエントロピー

そのような物理学史を考えたときに、果たして経済現象はすべてミクロ経済学の理論体系で説明しきれるのでしょうか?ミクロ経済学を見てみると、それは基本的に経済現象の中でも取引(交換)についての理論で有ると私は理解しています。そして、現代のマクロ経済学は、そのミクロな交換の集まりとしてマクロな経済現象を理解している捉えてます。そこで問題になるのは扱う経済現象のスケールです。構造力学のようにミクロの組み合わせで考えて良い場合もあります。それに対してマクロな現象である「熱」を理解するための熱力学とか、熱力学での理解に適合するように仮説を追加して理論を構築した統計力学があります。スケールについての議論は時間と絡めて奥が深そうです。物理現象の世界でもミクロでは時間を可逆として考えてもよいけど、マクロでは非可逆現象があるとか。量子レベルで見ると時間は存在しないとか。このあたり経済物理学でとっくの昔に議論されていそうです。
物理学史をベースに書いてきましたが、物理学に関しては素人の記述ですので、誤解が含まれているかもしれません。その点につきましてはご了承のほどを。
社会現象をどのように捉えるか、人間の行動を中心とした社会現象を統計的に扱う手法を確立されてきた林知己夫先生が中心となって、測定する側の立場から「データの科学」を提唱されています。その方法論の背景となる哲学をまとめた「データの科学 (シリーズ データの科学)」の「おわりに−因果関係論」は、精緻な理論構築に走りがちな「理論屋」への批判となっています。
データの科学 (シリーズ データの科学)

データの科学 (シリーズ データの科学)

そこで述べられている次の一節には考えさせられるものがあります。

因果関係追求はマクロ的なものを分離し、次第に単純なものへと一方向的に分化させていく。人間の生体理解のためにミクロの世界に入り込み、さらに物理・化学にまで分解される。そこまでいって、仮に因果関係がわかったとしても(因果関係らしきものがわかったとしても)、複雑な諸要因の絡み合い、ダイナミックスで人間は生きているので、もとの人間生体の有機的現象に戻して役立てることは不可能であるように思える。しかしこれが科学の進んでいる大道である。如何ともし難いのであるが、マクロはマクロなりに考えて有用な情報を取り出す−必ずしも因果関係にとらわれない−ことも考えてよいのではないか。

私は基本的に還元論的方法論を支持していますが、その限界は常に心得ておくべきでしょう。
元はといえば、市場とは何かという疑問から書き始めたテーマですが、実際にエントリーを書いてみると、私の経済、経済学に対する理解の浅さを痛感します。市場を理解する手前で滞っている状況ではありますが、ブログネタとして自分はこう考えていたというメモとして書いてみました。後読み返すとナント恥ずかしいこと書いたことかと恥ずかしくなりそうな予感がします(汗)。