敢えて社会システム理論に突撃

稲葉慶一郎氏が「稲葉振一郎『理論社会学入門講義(仮)』6月刊行を目指して作業中につき - インタラクティヴ読書ノート別館の別館」のコメント欄で、


申し訳ないのですが、ルーマンは完全スルーです。ハーバーマスさえ軽く触れるにすぎない。まさにルーマンこそは「素人にはお勧めできない」典型でしょう。
実はぼくはハーバーマスルーマン論争では文句なしにルーマンを支持する程度にはルーマンを尊敬しているのですが、ある時期以降後期ルーマンは敬して遠ざけています。
ウィリアム・バロウズと同じで、あれは金はないが暇はあるルンプロインテリ専用読み物ちゅうか、コストパフォーマンスが悪すぎる。彼のいう「ゼマンティク」を普通の知識社会学に翻訳すれば、どうにかそこから何かを学ぶことができる、という感じでたいそう効率が悪い。
ルーマン読むひまがあったら記号論理学か数理経済学か進化生物学の勉強をした方が多分コストパフォーマンスはよいと思います。
と評されていると逆に気になってしまい(苦笑)、まずは入門書として「ルーマン 社会システム理論 [「知」の扉をひらく]」に取りかかってみました。
ルーマン 社会システム理論 [「知」の扉をひらく]

ルーマン 社会システム理論 [「知」の扉をひらく]

  • 作者: ゲオルククニール,アルミンナセヒ,舘野受男,野崎和義,池田貞夫
  • 出版社/メーカー: 新泉社
  • 発売日: 1995/12/01
  • メディア: 単行本
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読んでみた感想ですが、社会問題を解決したいから社会学を学びたいという人にとってはコストパフォーマンスが悪すぎでしょうね。社会について説明はしてくれても、解決策には直接的な手がかりは与えてくれそうにないですから。別に役に立たないと言っているわけではなくて、特定の社会問題に着目したときに、他の問題との関連や、解決策が生み出す可能性のある副作用など全体を俯瞰するには適しているとは思います。
とりあえず、現時点での社会システム理論への理解(誤解?)は次のような感じ。
「人間はコミュニケートすることはできない。コミュニケーションだけがコミュニケートしうるのである」というのを見て、スキナーの行動主義心理学の主張を連想してしまいました。主体としての人間までも環境として扱って、コミュニケーションだけに注目して社会システムを捉える手法は、より純粋な理論を構築しやすいでしょうから。そして行動主義心理学自体は、主体の内面を問題にする認知心理学におされて、現在は心理学の主流からはやや外れた感じにあるのと同じような状況にあると。
パーソンズの因果的機能主義に対してルーマンは等価機能主義の立場をとっていると言うことは、社会問題の解決策を考えるときに、ある一つの解決策を提示するのではなくて、解決策として取り得る複数の可能な案を暗示することになるのかな。そして解決策を選択するのは政治哲学とかの問題になるということでしょうね。良く軽々座額論争で、「経済学的に見て」とされていることは、「その経済学者のもつ政治的津学的な規範に照らし合わせて」と読み替えた方がいいと思ってしまうので、理論社会学的には唯一の解決策が提示できなくても問題だとは思っていません。
近代的な社会形態では機能的部分システムを形成し、あとある部分システムにとって他の部分システムは環境であると捉えることによって、社会全体についてはどのように見るのでしょうか。ある部分システムを観察すると、観察環境を統制には限界があるから、環境に起因する現象が残ってしまう。いわば統計学での系統誤差みたいなものですが。各部分システムと、その部分システムで環境に起因する差異を合わせてみることで社会全体は捉えられるということになるのかな。ここは正直言ってよく分かっていません。物理学とかは実験環境を統制しやすいので因果関係の立証はまだ容易な方かと思いますが、生物学あたりから実験環境の統制が難しくなってくるので因果関係を立証するのは難しくなっていくんですよね。つまり自分が調べたい関係なのか、環境からの外因なのかを区別するのが難しくなります。物理学で大がかりな装置がいるのも、観察したい要因以外からの影響を排除するためですし。でも、生き物でそのような要因を排除しようとすると最悪死んでしまったりするわけで。経済学なんかでアノマリーが問題とされますが、すべてを説明しきれる理論を求めること自体が非現実的だと思っています。結局複数の理論(見方)を組み合わせて何とか全体像を推定するというアプローチが現実的ではないでしょうか。まあ、単独の理論体系、あとは規範に従えという考え方もあるかとは思いますが。
実証面に展開しようとすると、定量的には社会ネットワーク分析とか、定性的にはエスノメソドロジーとかを使うことになるのかな。
こうやってつらつらと書いていくと、社会システム理論を実際に社会問題の解決に使おうとするとかなり職人芸が要求されそう。まあ、統計学も多分に職人芸的なところがありますからね。昔統計学の講師からは「統計学はアートだ」と教えられましたから(苦笑)。

日本版フェアユースの早期導入を

クリエイティブ・コモンズ・ジャパンが日本版フェアユース導入に向けたアンケートをおこなっていたので、私もアンケートに答えてみました。


<アンケートの目的>
現在、文化庁では、著作権法の改正の1つの重要問題として、コンテンツの創作や利用に大きな影響を与える可能性のある、「日本版フェアユース」の導入についての議論がなされています。今年はこの日本版フェアユースを導入するか否かを決めるとても大事な年です。 
そこで、クリエイティブ・コモンズ・ジャパン(CCJP)では、実際に広く創作活動やコンテンツの利用に関わっているクリエイターやユーザーの方の意見を集めて、この議論に反映させるために、日本版フェアユースに関連する問題についてのアンケートを実施することにしました。
 
・集計期間:07月24日(金)から 08月17日(月)17:00まで
私自身何を問題と考えているかというと、絶版、品切れ状態で放置されている専門書があまりにも多いことです。権利に伴う義務を果たしていないとしか思えません。出版社の経営が厳しいのは理解できますが、今ではオンデマンド出版も、電子出版もあります。文化の発展という著作権法の主旨(建前?)に応えることができないのであれば、フェアユースによる現状打開を望みます。
著作者人格権をどう扱うかについては、ちょっと悩んでしまいました。オープンソースは人格権の部分放棄で成功した例であると考えられます。でも、包括的な規定を設けるのはちょっと難しいかな。

社会学のアイデンティティ問題

ちょっと積ん読状態だった「社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)」をようやく読み通しました。

社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

この本、著者が現職に就くときに抱いていた、以下のような問題意識をまとめたものになっています。

それがこうして大学は違うがまた社会学部に今度は教員として戻ってきた、と言うより今度こそほんまもんの(社会学者でいっぱいの)社会学部に(しかも倫理学担当で!)やってきたわけであるから、色々いきさつもあるのだが、それは省略。しかし実のところ未だに自分には「社会学」なる学問の意義がよく分かっていない。
世の社会科学の多くは、世の中の制度と(言い方は悪いが)共犯関係にある。一番はっきりしているのは法学と会計学である。法律にかかわる仕事をする(法律家になる)ためには法学の勉強をしなければならず、会計の仕事をする(会計実務家になる)ためには会計学を学ばねばならない。法学や会計学にとって法律や会計という存在はただ単に客観的に観察する対象ではなく、よりよいものへと改良すべく操作する対象でもある。法学や会計学は法律や会計という仕組みを作り上げ、動かしていく現実の力の一部なのだ。
この両者に比べればずっと弱いが、政治学や経済学、経営学、あるいは教育学、社会福祉学もまたそれぞれに、現実の政治や経済、企業や学校、ソーシャルワークを動かしていく現実の力である。しかしそのような大多数の社会科学に比べたとき、社会学にはそのような力が余りない。個人としてそのような力量を持つ社会学者は少なくないが、制度としての社会学は世間からそのような尊敬を受けていない。(余談ながら、そういう有力社会学者の多くは「政治社会学者」として政治学者なみの、あるいは「産業社会学者」として経営学者なみの待遇を受けているにすぎないように思われる。)
なぜそのように社会学は無力なのか? これは難しい問題だ。無力であることイコール悪いこととも、弱点ともただちには言えないこともまた、話を面倒にする。なぜなら、いま言ったような意味で無力であるということは、つまりは世の中の既成の権力とか利害関係とか、要するにしがらみから自由に、批判的に振る舞うことが容易である、ということであり、それはたしかに学問としての強みでありうる。だがそのような自由はもちろん、無責任であることと裏腹の関係にもあるのではないか。
大学時代、社会学の講義を受けたり、実地に社会調査実習をしたりしたこともあったので、それほど社会学が無力だとは思っていないんですけど。このような問題意識、どこかで見たことが有るなと思ったら、「統計学と経済学のあいだ (1977年) (東経選書)」で統計学アイデンティティに関する議論とそっくりですね。統計学それ自体はデータの分析手法に関する学問であり、適用領域の課題に合わせた手法が開発されています。それと同じく社会学は人間集団の分析手法を学問としてのコアに据えて、実証的な手法の開発を徹底的に進めることで社会科学全体の基盤になることにアイデンティティを求めてはどうでしょうか。何を見るかはそれぞれの学問領域に任せて、どのように見るかに焦点を当てる、それだけでもいまの社会科学の実証研究の現状からは十分すぎる貢献だと思います。社会学としての歴史的経緯から、そのような割り切りはできないかもしれませんが。そのような学問としてのコアをはっきりしていれば、別に「政治社会学者」とか「産業社会学者」と見られてもまったく気にする必要ないと私なんかは思うんですけど。
(追記)
パーソンズは触れられていてもルーマンはスルーなのはどうしてと思っていたら、「稲葉振一郎『理論社会学入門講義(仮)』6月刊行を目指して作業中につき - インタラクティヴ読書ノート別館の別館」のコメント欄見たら意図的にスルーしたんですね。

Zetero良いですね

Marginal Revolutionのエントリーでされていた文献管理サービスZeteroを使い始めてみたんですが、なかなか良いですね。Firefoxプラグイン入れておくと、ワンクリックでSSRN、arXivPubMedAmazonから文献情報が登録できます。データベースからだけでなく、直接Webのコンテンツの登録もできます。
ただ残念なのは、現時点では日本のデータベースには対応していないんですよね。CiNiiNDL-OPACを試してみたんですけど、どちらも非対応でした。あと、Amazon.co.jpで書籍登録すると、著者の姓名が逆に登録されてしまうので、手直しする必要があります(汗)。

ハイデガーと仏教哲学

今更ですが、「ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)」を読んで思ったこと。ハイデガーの思想って仏教哲学で論じられていることと非常に類似しているのでは。

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

ハイデガー=存在神秘の哲学 (講談社現代新書)

存在者と存在の関係は、五蘊と空の関係とその議論の仕方が同じとしか私なんかには思えません。
ハイデガーの遺言めいた次の言葉は、高僧の言葉のようですし。

全集出版にあたり、「全集編集上の留意」という覚書をのこしている(全集第1巻冒頭)。死の数日前のせりふ。いわば遺言。たった一言。
「道。著作ではない」(Wege-nicht Werke)

そして放下。

どうしようもない。どうか<しよう>なんてことがすでに人為。石の立場。イカガワシイ。だから<待つ>。待ちながら、ひたすらゲシュテルという時代構造(同時に構造ニヒリズム)に、目をひらいていたら、それでいい。そうあっさりいう。

このあたり、以前読んだ「般若心経は間違い? (宝島社新書)」で語られる初期仏教の教えを思い出してしまいました。

般若心経は間違い? (宝島社新書)

般若心経は間違い? (宝島社新書)

出発点が違えども、同じ問題意識から突き詰めて考えると同じ道を歩むことになるのかな。

統計学と経済学のあいだ

少し前にyyasuda氏がブログで紹介していた竹内啓先生の「統計学と経済学のあいだ (1977年) (東経選書)」を読んで見ました。

そのすごさについては私などが書くまでもなく、yyasuda氏のエントリーをごらんになってください。
ECONO斬り!! : 天才竹内教授はかく語りぬ - livedoor Blog
ECONO斬り!! : 経済学の「科学性」について - livedoor Blog
出版時期から取り上げられた事例は古いものがありますが、1977年に出版された本とは思えないくらい、その論点は現在にも通じるものがあります。

目次

第1章 統計学と経済学−方法的対比
はじめに 経済学の「要素論」 経済学の数学的性格 統計学は「科学」か 統計学の性質 経済学と統計学の対比 学問の「指向」の方向 統計学者の感覚 「事実」の確認
第2章 統計的なものの見方について−偶然性と集団性
「過程」としての統計学 統計学における「実践」の重要性 「偶然性」−誤差とバラツキ 「確率モデル」における偶然性のイメージ 「統計」の論理と歴史 「統計」の客観性
第3章 統計の社会性−続・統計的なものの見方について
統計調査の目的 調査される側の論理 統計学における「イデオロギー」 「事実」認識の重要性
第4章 経済学の「科学性」について
「科学的」とは何か 理論と現実 近代経済学が模範としたもの 「物理学化」の功罪 経済学の「普遍主義」的傾向 マルクス経済学の科学性 経済学がより「科学的」であるためには
第5章 経済学の混迷とは何か
学問の三つのレベル スミスとマルクスと インフレと非経済要因 「閉じた体系」には限界 経済学の価値 学問の魅力
第6章 「科学的」日本経済論の有効性
日本の近代経済学 イデオロギーなし「の科学」? 応用経済学の発展 「価値判断」の必要な現代の経済問題 切り離せない「効率」と「分配」 近代経済学への期待
第7章 スタグフレーション下の政治の論理と経済の論理
エコノミストの「責任」を超える現状 資源問題の本質は「政治」 インフレ問題をめぐる「政治」と「経済」 必要な「政治経済学」的分析
第8章 経済活動のモラルとルール
悪者をつまみ出せ 厚生経済学のルール ルールのあり方と適用 「非常事態」の考え方 モラリズムの危険性 第8章への補論
第9章 経済学と生きる時間
経済学と時間 時間の「希少性」 価値ある時間とは 抽象的欲求と時間 時間と金の補完性 財・サービスの効用と時間 ふえた自由時間 豊かな時間のために
第10章 物価指数の「実感」とは何か
感覚的判断と主観的印象 物価の感覚 困難な「生活水準」の表現 グループ別物価指数 個別物価指数 品質と効用
第11章 確率の社会経済的役割
保険と確率 確率と責任 公害の責任 災害と確率 裁判と確率 むすび
第12章 生命における「ばらつき」の意味
個体間のばらつき 個人差の分布 偶然性の作用 精神的な特性について 自然の原則と個性の尊重 人間としての立場
第13章 経済における数量の意味
資本主義経済の数量的性格 数量の基礎としての価値形態 貨幣 価値の実体化 社会主義経済と数量的合理性
第14章 国富論統計学−経験的計量経済学の先駆者としてのアダム・スミス
経済学の「合理的」性格 十九世紀の古典派経済学と「古典的統計学」 政治算術とスミス 『国富論』に対する視点 「富」の概念と分業 分業の利益 労働価値論 賃金と成長率 資本の概念 「見えざる手」 むすび

「第9章 経済学と生きる時間」の議論は、アテンション・エコノミー論の先駆けといえるのではないでしょうか。
本書を読んで気付いたことは、統計学と経済学とのあいだで、その背景にある科学哲学に違いがあるのではないかと言うことです。近代経済学者は科学哲学で言うところの科学的実在論(wikipedia:en:Scientific realism)の立場に立っているのに対して、統計学者は構成的経験主義(wikipedia:en:Constructive empiricism)に立っているように思えます。つまり真理の探究ではなく経験的に十全なな理論をつくることを目的としているということです。林知己夫先生の本を読んでいても同じような印象を受けますし。
それにしてもこの本も絶版なんですよね。著作者、出版社がGoogleの動きに抗議する前に、権利と裏腹の関係にある流通させる義務を果たしてほしいと思う今日この頃。